5/5 鉄人ターミネーター 2 years ago on Google
明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
先日、元日に尼崎市栗山町にある生島神社⛩️へ初詣に行きました。毎年そうですが、境内の外の道路の辺りまで並びます。この日もそうですが参拝者の方👪が約70~80メートル本殿まで並んでいました。そして、境内に入ると正面に、美しい朱色の本殿があり、その参拝の途中の左側に毎年恒例の福火🔥が焚いていました。「大晦日の大祓は、半年の罪穢を祓い清め、新しい年をお迎えいただくための大切な行事です。生島神社では、大晦日から正月にかけて境内で福火🔥を焚いており、この福火🔥にあたり、一年間無病息災に過ごすよう願っての事だそうです。」それから、本殿~生島弁財天~交通神社にお参りをさせて頂きました。人々👪は、地元の氏神様を大切に思い、毎年お正月には必ず初詣をして、一年の思いをこの生島神社⛩️に願いを込めてお参りをされるようです。😃
[生島神社]
所在地
尼崎市栗山町2丁目2丁目24-33
阪神バス「立花支所」東約50m
生島神社は、かつて生島と呼ばれていた尼崎市立花地区の上之島・栗山・大西・三反田4か村の惣氏神で、中世には生島荘の氏神であったと考えられています。生島荘は多田源氏の一族源実国が開発した所領で、平安時代の終わり頃、実国の子孫が天皇家に土地を寄進しています。
由緒
生島神、足島神は生国魂大神、咲国魂大神とも申し、伊邪那岐命、伊邪那美命の御子で、大八洲の御霊。大地と生命の営みを続けている一切を守護する大神です。
鎮座地の立花地区の上ノ島・栗山・大西・三反田の四町はその昔、生島と呼ばれ、天長七年(830)に朝廷によって開発されたところです。康治元年(1142)には、開発領主であった源実国の子孫が、この生島庄に当たる場所を時の関白・藤原忠通に寄進しました。同じ頃、僧澄海が大般若経を『生島大明神』に献じたと伝えられています。これが文献上の初見。
寡聞ではありますが、摂津国東生郡の式内大社である難波坐生國咲國魂神社(二座)に関する説明などには当社を元社とする話は紹介されていないようです。
二の鳥居と拝殿

本殿

お姿
拝殿の前にしだれ桜が寄贈されて植えられています。右近の桜、左近の桜であり、せっかくの「立花」地域の名が泣いている気分です。
JR立花駅から一本しか道を歩いていないが、およそタチバナの地名と他の地域との違いは感じられないです。せめて、生島神社に一本でも橘の木が植えられておれば、何となく気が済んだ所です。それでも生島神社の存在がタチバナの地名を語っているとも言えるのです。生國魂大神と咲國魂大神、それぞれ常世の国からの来訪神と云うことです。
朱塗りの本殿は木々と竹藪に埋もれて見えにくいのですが、それだけに神々しいです。
社殿

お祭り
10月14日 例祭
参考 生島神社略誌
平成祭礼データから
創立は仁徳天皇の御代と伝えられ、社伝によれば人皇第十六代仁徳天皇当地方に行幸のみぎり、生島巫神を鎮め給ひ、其の後天皇都を高津(大阪)に遷されるや、当生島巫神を大阪の庄石山崎(現在の大阪城附近)に遷座せられ、爾後生島庄栗山村に生島巫神の別霊を祭祀、一祠を存続せられたと、今尚当地に於ては、大阪生国魂神社より、其の創祀古しと伝え、信じられています。この事柄は「三代実録、摂津志」に明記せられて居り、明治維新迄は、生島明神、生島弁財天の称を以って知られ、生島宮寺を廃し、生島神社と改め、明治六年八月郷社に列せらるのです。
大正三年六月二十七日生島庄の内上ノ島村々社須佐男神社を合祀、同年七月一日同じく大西村々社熊野神社合祀、大正四年十二月九日同じく三反田村々社八幡神社を合祀して現在に至るのです。
[生島神社のご案内]
4世紀、第16代仁徳天皇の御代に創立。御祭神は、生島神、足島神、天照大神、須佐男神、八幡大神、伊邪那[岐、伊邪那美神。御祭神の「生」という意味は、生成、進歩、完成を、「足」という意味は、充実、繁栄、発展を表します。この大地の御守護と共に大地に生を受けているあらゆるものの生命の完成を御統轄される神様です。摂末社に、生島辨財天社があり、寛平2年(890年)弁財天女像を氏神として祭り、その脇に毘沙門天像、地蔵菩薩像を安置。安産の神、子供の守護神として信仰されています。また、生島稲荷社は、商売繁昌、開運厄除、産業発展の神として崇敬されております。
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